映画『パラサイト 半地下の家族』の感想と考察 – 格差のクロスオーバー&シャッフル

パラサイト 半地下の家族
出典:imdb
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作品データ

原題:기생충
監督:ポン・ジュノ
脚本:ポン・ジュノ、ハン・ジンウォン
出演:ソン・ガンホ、イ・ソンギュン、チョ・ヨジョン、チェ・ウシク、パク・ソダム、チャン・ヘジン、チョン・ジソ
音楽:チョン・ジェイル
制作:2019年、韓国

あらすじ(ネタバレなし)

半地下に住むキム家は全員失業中。

ある日、息子ギウの友人で名門大学に通うミニョクやってきて、ギウにパク家の家庭教師の職を紹介する。

パク家は高台の高級住宅地で裕福な暮らしをしていた。

ギウは新任家庭教師としてパク家を訪れ、そこであるアイデアを思いつく。

ギウの「計画」はうまくいくかに思えたが・・・。

『パラサイト 半地下の家族』の感想

どこかで見たような出だしだが、この映画は何枚も上手だった件

どういう内容の映画なのだか、まったく知らないで鑑賞。

出だしは『しとやかな獣』みたい。
(私の大好きな日本映画)
全員モラルがぶっ壊れた家族のお話し。
・・・だと思ったら、最後まで見たら違った。

タイトルに「パラサイト」とついてるところにも興味をそそられた。
妹が美術の家庭教師としてパク家にやってくるあたりから、「そうか、パラサイトってそういうことか」とやっとタイトルの意味を理解した。
・・・しかし「パラサイト」の意味はもっと深かった。

そんな感じで、この後もどんどんこの映画は違った顔色を見せてくる。

↓ここから先はネタバレあり↓

パラサイト 半地下の家族

出典:amazon

あっけにとられる展開がおもしろすぎた件

展開で注目したいのが、パク家がキャンプに出かけているあいだ、豪邸でキム家が酒盛りをするところ。
「どうせパク家が突然予定を変更していきなり帰ってくるんだろう」とは思っていた。
完全にフラグ立ってるし。

がしかし、こんなよく出来た映画がそんなベタな展開をするわけがない。
「じゃあどうするのかな?」と思って見ていたら、なんと、パク家の豪邸の地下に“先住民”の全地下夫婦がいた、というあっけにとられる展開。

そこからはじまる緊迫感あふれるドタバタ劇に、もうおかしいやら怖いやら。

そうやってわれわれ観客のアタマを混乱に叩き込んでおいて、ここでお約束、パク家のお帰り。
さっきまで予想していたのに、すっかり気をそらされていたので「ぎょええっ!?」と驚く私。
「やりおったこの映画!」と思わず膝をたたいた。

元家政婦が階段からころがり落ちるシーンなど、あまりの緊張感あふれるおもしろさにもう死ぬかと思った。

このあとがまたおもしろい。

さっきまで豪邸で高い酒を飲みながら優雅な時間を過ごしていたキム家がドシャ降りの雨の中、傘もささずにびしょ濡れで家に帰る。
ここは名シーンだなあ、と唸らせる。

ここ十数年に見た映画では『アデル、ブルーは熱い色』で、アデルがベンチで昼寝をするカットと並ぶ素晴らしさ。
映画監督が何十年の映画人生でひとつ生み出せるかどうかの神映像だと思う。

半地下の家に帰って、排泄物が逆噴射する便器の上でタバコを吸う娘のショットも印象的。

最後のパーティーのシーンの演出もおもしろかった。

キム家の娘が包丁で刺され、必死に傷口をおさえるお父さんに、「お父さんバカね。そんな強くおさえたら逆に苦しいわよ」と言って「プッ」と笑う。
これがこの娘、最後の登場シーンで、次にその顔が画面に映るのが、彼女の遺影。
それを見て何故か笑う息子。

このブラックな演出。
ポン・ジュノのセンスがきいている。

パラサイト 半地下の家族

本当はキム家の娘が逆噴射する便器に座ってタバコを吸うクリップを貼りたかった(出典:imdb

『しとやかな獣』との共通点と異なる点

映画が終わってふりかえってみれば、

家族みんなが悪どい系・・・川島雄三『しとやかな獣』、赤川次郎『ひまつぶしの殺人』等
他人が家族に寄生する系・・・『魔太郎がくる!』のヤドカリ一家のエピソード、他にも多数
地下室とか屋根裏に誰か他人がいる系・・・ホラー映画『ブラック・クリスマス』『壁の中に誰かがいる』等

など、これまで腐るほどあったアイデアをつなぎ合わせて作ったみたいなお話しなのに、この新鮮さは何だと驚く。
個人的に既存の映画で一番似ているのは『しとやかな獣』だと感じた。

『しとやかな獣』は私の生涯のベスト30位以内には入る好きな邦画なのだが、この『パラサイト 半地下の家族』はそれを完全に超えていたと思う。

『しとやかな獣』は戦後焼け野原となった貧乏な日本で苦渋を噛み締めた家族が、もう二度とあんな惨めな生活に戻りたくない一心で、悪どくたくましく生きる映画だった。
シチュエーションを現代に置き換えると、それは非情な社会システムの中、埋まりようのない経済格差のルサンチマンに変わったのだ。
その経済格差を「地下」「半地下」「高台の豪邸」という明快なシチュエーションに象徴させ、恐ろしくも笑えるブラック・コメディとして描いた。

わかりやすく、それでいて、細かいところまで実によく作りこまれている。
繰り返しみるほど、新しい発見がある映画だ。

パラサイト 半地下の家族

この後の、キム家の娘のラストショットが趣深い。
ふりかえれば、この映画のオイシイところの多くをこの娘が持っていった気がする。(出典:imdb

複雑に見立てられた格差のクロスオーバーな構図

例えばこの映画の「格差」の描き方。

パク家のお母さんが、犬の餌に日本のカニカマを与えるシーンがあった。
ここはあまりナイスな描写じゃないのだが、しかしそこをグッとこらえて、この映画の日本人の役割はなんだろうかと考えた。
そして思い至った。

この映画ぜんたいを支配する、人間の格差のクロスオーバーな構図に実は日本人も組み込まれているのだ。

パーティーの準備で、パク家のお母さんは、テントを日本の軍艦に見立て、テーブルを鶴翼の陣に配置するよう家政婦(キム家のお母さん)に指示をする。
つまりここでは、ネイティブアメリカンのテントが日本軍に見立てられ、パク家は日本軍を撃退した朝鮮軍に自らを見立てつつ、同時にネイティブアメリカンを侵略した白人にも自分たちを重ねているのだ。

また、中盤のキム家がパク家に寄生してゆくくだりでは、キム家が白人で、パク家がアメリカ大陸、全地下の夫婦がネイティブアメリカンに見立てられている。
パク家の“先住民”だった全地下の奥さんは、侵略してきたキム家を撃退し、そこで北朝鮮のモノマネをしてキム家をからかう。

洪水の夜、避難所でキム息子が「お父さんすいません、責任とります」とお父さんに謝る。

パク家がアメリカ大陸だとすると、息子はさしずめコロンブス。
新大陸を発見し、家族を移民として招き入れたところが、先住民に撃退され、大陸を追い出されてヒドい目にあった。
そしてキム息子は先住民と話をつけに(撃退しに?)、パーティーの日、地下に降りてゆくが、そこでまた先住民に撃退される。

ちなみにこのシーン、上では金持ちが本物のネイティブアメリカンの格好をして討伐遊びをしている。
その下で、息子は地下へと本当の先住民討伐へと向かう。

このようにして、至るところにクロスオーバーな対比があるのだ

人間が上と下に分かれ、侵略と寄生を繰り返している。
そしてそれぞれが、それぞれを、マネしたり、マネされたり。

侵略したり侵略されたり。
寄生したり寄生されたり。
撃退したり撃退されたり。
マネしたりマネされたり。

冒頭のシーンからして、キム家は“上”の人たちのWi-Fiの回線を拝借してたり、キム家のお父さんはパンにたかる便所コオロギを指ではじいて撃退している。

ふと、タランティーノが映画を通して、人類が歴史の中で差別したり差別されたり、そのやり方をマネしたり、マネされたりしてきた、そんな様相をシャッフルして描くことで、差別の愚かさをおちょくっているのを思い出した。
(この理論に関しては、私の別ブログ『映画で英語を勉強するブログ』のこちらの記事に詳しく書いた)

この『パラサイト 半地下の家族』でも、格差の中で侵略と寄生と対立を繰り返してきた人間を様々な角度で見立てることで、その愚かさを笑い飛ばしているのだ。

なんでキム父さんはあんな行動をとったのか

パーティーでのキム家のお父さんのとった行動はいっけん不可解に思える。
地下の男を臭そうに鼻をつまんだだけで、なんでお父さんはパク主人を殺したのか。

このままズルく金持ちに取り入り続けるのなら、ここでお父さんがとった決断ほど愚劣ものは無かっただろう。
しかし目の前で娘が刺されて血を吹き出しているのに、そんな下々の生き死にには目もくれず、ひきつけを起こした息子を病院に運ぼうと金切声をあげるパク家の主人を前に、キム家のお父さんは“計画の無い”衝動で、全地下の夫婦の側に立つのだ。
(パク家の元家政婦を丁寧に埋葬するシーンで、お父さんは全地下の夫婦に何かしらシンパシーのようなものを感じていたのだとわかる)

しかし映画的にお父さんはどこまでも正しいのだった。

そしてその心意気を理解した息子は最後に、ちゃんと働いて金持ちになって、地上の豪邸を買い、お父さんを迎えに行くことを決意するのだ。

それでは何故、キム父さんはあんな行動をとったのか?

ストーリーを支配している揺るぎない理(ことわり)と、それに抗った唯一の男

この映画がさまざまな「見立て」として描いた侵略と搾取と寄生の混沌の中で、強い者は弱い者を侵略し、弱い者は強い者を利用する、そんな理(ことわり)が全体を貫いている。

ここで重要なのが、キム家の息子の推移。

このキム家の息子だけが、今いる自分の立場に疑問をもち、変わってゆくのだ。

キム息子は、パク家の娘と恋仲になり、登場人物の中で初めて、下の立場の人間が上の立場の人間に“成る”と言う概念を抱く。

パーティーの日、窓から金持ちたちの様子を眺め、「自分はこの人たちのような人間に成れるのだろうか?」と疑問を抱き、ここでいったん後退する。

一方、キム父さんはラストで、その衝動のままに、格差の理に抗う行動をとり、全地下に潜る。

その行動が意味するものを家族で唯一受け止めたキム息子はふたたび、いつか上へとのしあがる気概を蘇らせるのだ。

『パラサイト 半地下の家族』の山水景石

山水景石は正反対の2つのモノを象徴していると私は考えている(出典:imdb

山水景石は「虚」と「実」の象徴

山水景石が意味するものは、そんな人間のありのままの姿と、その文明が作り出している虚構の象徴である。

この石がキム家にやってきた時、息子は言う「これは本当に象徴的なモノだ」
そしてお父さんは言う「今の私たちにピッタリだ」
またお母さんは言う「そんなモノじゃ腹はふくれないよ」

この3つのセリフが意味するものは実に明快だ。

石は本来、自然のものだが、自然から切り取られ、台の上にのせられ、自然を模したオブジェと化す。

それは本来、同じはずの人間同士が文明の中で格差(学歴・経済・社会的立場・民族など)という虚構に切り分けられ、それが埋まりようのない溝となって存在していることの象徴なのだ。

しかし石はまた、人間は本来自然のもの、皆、同じ、という「実」の象徴でもあるのだった。

洪水の夜、避難所で、キム息子は石を抱きながら、「これは僕にへばりついて離れないんです」と言う。
それは本来、「自分は同じ人間だ」という想いと、文明社会で生きていく上で経済的立場や学歴が制限となってまとわりつき、離れないという、そんなあべこべの概念がないまぜになっていることの表れだと思う。

最後、息子は石を自然に戻す。
戻してしまえば、石は他の自然と見分けがつかない。
みんな同じモノの中のひとつへと戻る。

まとめ

斯様に、細かいところまでよく作り込まれていて、見応えのある映画だった。

格差の表現として、見た目には映らない「臭い」をもってきたところもうまい。

そして大事なコトだけど、ぜんぶのシーンが底ぬけにおもしろい!

モノクロver.も見てみたけど、カラーのほうが格段にいい。
ストーリーテリングの唐突なおもしろさがカラーの方が際立っている。
モノクロになると、趣が先に立っちゃって、無駄に失速を促す。

ポン・ジュノ監督の映画としては、個人的には『グエムル』と並ぶ最高作。

評価

この種の映画の新たな金字塔を打ち立てた傑作かと。
★★★★★

Good Movie 認定


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