映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の感想と考察 – 神は最初からいなかった説

シン・エヴァンゲリオン劇場版:||
出典:imdb
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作品データ

総監督:庵野秀明
監督:鶴巻和哉、中山勝一、前田真宏
原作:庵野秀明
脚本:庵野秀明
出演:緒方恵美、林原めぐみ、宮村優子、坂本真綾、三石琴乃、山口由里子、石田彰、立木文彦、清川元夢
音楽:鷺巣詩郎
制作:2021年、日本

あらすじ(ネタバレなし)

赤く荒廃したパリの復旧作業を進めるヴィレ。
妨害するネルフのエヴァ。
マリが操縦する8号機の活躍により、ネルフのエヴァは撃退され、パリは美しい姿を取り戻す。

一方、救助を求めて赤い大地を放浪するシンジ、アスカ、レイは、ある場所に辿り着く。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の感想

見る前は期待半分。不安半分。
期待はシンプルな想いだが、不安は一筋縄ではいかない複雑なものがあった。
しかし冒頭のシーンを見て、とりあえずその面白さに不安はぶっ飛ぶ。
(不安部分は終盤、忘れた頃にやってきた)

そこからの展開がまた気持ちよい。
「え!? なんでそうなっちゃうの!?」と呆気にとられまくりで、最後はポカーン・・・だった『ヱヴァQ』と比べて、しっくりくる展開ながら、それでいて意外性もあるという。

いい感じ。

↓ここから先はネタバレあり↓

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とりあえずよかったところ

前半はジブリみたいなシーンが続いて、それがエヴァの物語にしっかり馴染んでいて心地よい。
そこから後半にいくにつれて次第にザワザワした戦闘の雰囲気になっていくところの展開がもう神。

セリフがめちゃめちゃいい。
例えば南極のカルバリベースを突き進むヴンダーの中で高雄が言うセリフ。

人類がその浄化されたエリアを祝福も受けずに進んでいる。
加持のデータとアンチLシステムのおかげだ

こんな感じで、科学的な説明セリフも、いちいち神々しいボキャブラリーを織り交ぜてイキな響かせ方をさせてくる。

また、演出面で最高に好きなのが、後半最初の山場、ヴンダー対、エアレーズングをはじめとしたネルフ新戦艦とのバトル。

いきなり昔の特撮映画みたいな曲がかかって、「なんだこの音楽!」と興奮して後で調べたら、『惑星大戦争』という1977年の日本の特撮映画の音楽だって。

ここのミサトさんたちヴンダー乗組員たちのセリフがクッソかっこいいのだ。

私はあれ以上にシビれる「撃てーい!」を如何なる戦争映画でも聴いたことがない。
映像・声優の演技・音楽、そしてその言葉が発せられるタイミング。
すべてが綿密に計算されて配置されたオーケストラのように、この「撃てーい!」というたったひと言の爽快感を演出している。

このセリフの響かせかたひとつとっても、この映画を作った人たちが並外れて優れた感性を持った方々だということが窺い知れよう。

思えば、組み合わせの妙はこの映画の随所に発揮されている。

プラグスーツで田植えをするレイちゃん、
パリに起立するネルフ支部、
エヴァに乗る碇ゲンドウ、

高度に研ぎ澄まされた感性の創造を目と耳で楽しむこの喜びよ。

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アヤナミレイ(仮称)から綾波レイへと

前半の主役はアヤナミレイ(仮称)。

前作でアイデンティティを刺激され、自我を目覚めさせかけた彼女。
今作で自ら「私は綾波じゃない」とはっきり主張してみせる。
自己否定だがしかし、出発点に立っていることがわかる。

続けて彼女は「ヒトはひとりひとり違っていていいのよ」と教えられ、「個」として成長してゆくきっかけを与えられる。
前作まで「綾波タイプの初期ロット」だった彼女は、ここで「そっくりさん」へとレベルアップする。
そうして彼女はヒトとして成長してゆくのだ。

「おやすみ」「おはよう」「ありがとう」「さようなら」、そして握手。
ヒトとしての言葉や行動を、その裏の意味まで理解しながら、スタンプラリーのように学んでゆく。

そうして学んだことを使いこなすシーンを丁寧に描いてゆくことで、彼女の成長を表現する手法もうまい。
その行動原理も「命令」から「仕事」へと上書きされ、「恥ずかしい」という感情も身についた。

「アヤナミレイ(仮称)」から「そっくりさん」へとレベルアップしていた彼女が、シンジ君に名前をつけてもらって、最終フェーズである「綾波レイ」へと到達する。

映画の後半で碇シンジ君は『:破』のポカ波レイちゃんと再会し、「もうひとりの君は・・・」と口にする。
そう、アヤナミレイ(仮)は、ぽか波レイちゃんのレベルに達することができたということなのだ。

また、この過程でのアスカとの対比が興味深い。

アスカの言葉によって、アスカもレイも、シンジ君に好意を持つように設計されている人間の模造品だという事実が明かされる。

「プログラムされた好意」だと言って、それを口実に、その感情を自ら否定しようとするアスカと、その感情を素直に受けいれるレイ。

「それでもいい。ヨカッタと感じるから」とレイは言う。
からくりを知ったからといって、それを拒絶するのではなく、与えられたのは何か意味があったからなのだと解釈する。
私はこういう考え方が好きだし、正しいヒトとしての理解だと思う。

綾波レイ

アヤナミレイ(仮)改め「そっくりさん」改め綾波レイ(出典:imdb

まるで果物を潰すように、この映画が潰したもの

そうやって完成した綾波レイちゃんを、この映画は序盤にして、まるで果物をブチュッと潰すように、消してしまう。

ふと、フランソワ・トリフォー監督が『アデルの恋の物語』という映画で、残酷なまでの失恋の物語を描き、「私はこの映画で、あたかも果物をブチュッと潰すように、恋を潰してみせたのだ」と語ったのを思い出した。

庵野監督はリリスの抜け殻をヒトへと昇華させつつ、その恋心をこうしてブチュッとあっけなく潰してみせたのである。

この時点で私が予想していた、エヴァ新劇場版は「リリスの恋の物語である」という予想は完全に裏切られた。
そう、この映画はさらにその先へと向かおうとしているだ。

冬月先生がゲンドウに「自分と同じ喪失を経験させるのも息子のためか、碇?」と言うセリフがあった。

『ヱヴァQ』の最初にシンジ君が味わった喪失、
そして今回の喪失。
それらはそのまま、われわれ観客の喪失でもある。

なるほど碇ゲンドウが「リリンの王」である理由も納得がいく。
碇ゲンドウはわれわれ観客のメタファー的な父性でもあるのだ。

そんな感じで、この映画は何かと私の想像を超えていった。
綾波レイの消滅もそのひとつだが、それ以上に想像を超えたのがラスト31分だ。

しかしそう事を急がず、まずはじっくり碇シンジ君の変化を追ってみよう。

碇シンジ

碇シンジ(出典:imdb

「変わらない物語」から「変わる物語」へと

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』は、最初は旧エヴァと同じ物語ではじまり、だんだん違っていって、完全に異なる物語となり、最後はシンへと至る。

そういう話しであった。

そう、新劇場版四部作のスタイルそのものが、その重要なテーマのひとつに「変化」つまり「変わること」であることを身をもって示している。

『:序』で渚カヲル君はシンジ君をして「変わらないな」と言った。

そう、基本的に変わらないのが人間。
いつまでも同じ過ちを繰り返すのが人間。
それはエヴァを見て育ったわれわれ観客のことでもある。

アスカのセリフに

まだアンタはリリンもどき。
食べなきゃ生きていけない。
何も変わらないカラダになる前にメシのまずさを味わっておけ

というのがあった。

「エヴァの呪縛にかかる」ってことは、「変わらないカラダになる」ということだ。

人間は変わらない生き物。
しかしその反面、変わる生き物でもある。

「変わらない」で終わった旧エヴァから、「変わる物語」として新たに誕生した新劇場版。

ひと足先に変わったアヤナミレイ(仮)の働きで、シンジ君は失語症から立ち直り、映画が始まって30分にしてシンジ君はやっと最初のセリフをしゃべる。
ここの緒方恵美さんの演技が泣けるのだ。

ちなみにエヴァといえば古今東西の映画やアニメのパロディ(オマージュ)が見どころのひとつだが、シンジ君が頭を抱えるようにして横になるポーズは初代ガンダムのアムロにそっくりだった。

閑話休題。

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神が不在の物語

前作の『ヱヴァQ』でカヲル君はシンジ君にこう言った。

シンジ君は安らぎと自分の場所を見つければいい。
縁が君を導くだろう

この映画をラストまで見ると、この第三村が、カヲル君の言っていた「安らぎと自分の場所」なのだったと思い至る。
なぜなら、シンジ君は自らの意思で第三村を去り、ヴンダーに戻る。
そしてカヲル君は自分の勘違いを悟るのだ。

ここで示唆される事実は、カヲル君は旧エヴァのようなアダムの化身でも何でもない。
あくまでもただの「人間」だったということ。

そこから全体を見渡してみると、理解されるひとつのポイントがあった。

『新劇場版』とは、神が不在の物語だったのである。

神が不在の物語であるということ

『:序』『:破』『:Q』を通して私が疑問に思っていたのは、リリスはどこにいるのか、アダムはどこにいるのか、ということだった。

アダムという言葉は出てこないかわりに、アダムスという複数形の単語が出てくる。
アダムが複数になったのか、アダムじゃない、アダムスがいるのか、それも分からない。

リリスに至っては、『:破』のラストに出てきた巨大な魂の塊になった綾波レイと、『:破』と『:Q』の間に動き出したというネルフの地下にいる巨人。
この2つの相関性を一致させる解釈が本編には見当たらない。

しかしシンエヴァまで見終わって、けっきょくこれは神が不在の物語だったのだと理解できた。

最後に巨大な姿を現したリリスは、イマジナリー(想像の産物)、つまり人間が頭の中に描いた虚構としての神である。

ゲンドウの「お前の記憶ではそう映るのか」というセリフにも象徴されるように、異なる文化で神は違った形で具現化される。

神は所詮、ヒトが創り出した想像の産物なのだ。

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つまり新劇場版は人間の物語

旧エヴァと新劇場版は世界観が繋がっているのかいないのか、という議論がある。

私はこれは無意味な議論だと思っていて、エヴァのようなタイプの作品はひとつの正解となる解釈があるわけではなく、いろいろな受け取り方があっていいと思うのだ。

そして旧エヴァのラストの赤い海が新劇場版の冒頭にある以上、旧エヴァの続きの世界観として解釈しても辻褄が合うように出来ている「はず」なのである。

新劇場版が旧エヴァの続きの世界観だとして、最大の難問がリリスの存在だった。

旧エヴァのラストで、リリスはアダムと融合し、リリス=アダム=綾波レイ=碇ユイ、これら全ての存在がひとつの神になった。

世界はセカンドインパクトの時点までリセットされたとはいえ、リリスの存在までがリセットされたとは思えない。
そこもなあなあにしてしまっては、いろいろな受け取り方が出来る物語の世界観としては、かなりブサイクな構築っぷりになる。

しかしそこはやっぱりなあなあでいくのか、ちゃんと美しく整合性が保たれるのか。

少なくとも私はこの点はちゃんと逃げることなく、このブログやYouTubeで考察してきたつもりである。

そしてシンエヴァを見て出た答えは、私の期待した通りの整合性があり、それでいて、シンエヴァが提示した答えは遥に私の想像を超えていたのだ。

つまりは神が不在の物語。

本編には既に人間になった神(カヲル君)と、想像の神(イマジナリー・リリス)が出ただけ。

旧エヴァで全知全能の神は誕生し、その神はどこか彼方で見守っているだけで、新劇場版はあくまでも人間の物語に終始したのであった。

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「方舟」の形骸化

インパクトが洪水のメタファーであるという共通項はあるものの、旧エヴァと新劇場版では「方舟」の定義までがズレている。

旧エヴァでは、人類補完計画の依代となるエヴァを「方舟」と呼んでいた。

新劇場版での「方舟」は、補完計画とは関係が無い。
いやむしろ、その対極にある。

リツコさんのセリフにあるように、

補完計画の巻き添えで消えてしまう生命をこの世界に残すことが加持さんから受け継いだ、ヴィレの目的。可能な限りの生命の種を地球圏外に避難させる

そう、あくまでもインパクトが洪水のメタファーであることだけは据え置きで、新劇場版における「方舟」とは、旧エヴァのようなエヴァのメタファー的な意味ではなく、聖書にあったそのまんまの意味になっているのだ。

ここにも神が不在の物語に付随する、概念の形骸化が認められる。

アダムスはゼーレだった説

で結局「アダムス」って何だったのかという問題だが、正直よくわからない。

しかし私はふと、アダムスって使徒になったゼーレのこと、って解釈もあるんじゃないか、と思った。

私がそう思った源泉はこちらの碇ゲンドウのセリフである。

知恵の実を食した人類に神が与えていた運命は2つ。生命の実を与えられた使徒に滅ぼされるか、使徒を殲滅し、その地位を奪い、知恵を失い、永遠に存在し続ける神の子と化すか。われわれはどちらかを選ぶしか無い。ネルフの人類補完計画は後者を選んだゼーレのアダムスを利用した、神への儚いレジスタンスだが、果たすだけの価値のあるものだ

注目していただきたいのはこのセリフの中でもとりわけこちらのフレーズである。

後者を選んだゼーレのアダムスを利用した神への儚いレジスタンス

「後者を選んだ」とは、「使徒を殲滅してその地位を奪い知恵を失い神の子になった」ということを指しているのは文章をよく読めばわかる。

問題は「ゼーレのアダムス」というフレーズの解釈だ。

私はもともと、「アダムス」とは「使徒」のことだと思っていた。
なぜなら、リリスの複数形をヘブライ語で「リリン(人間)」というからだ。
神の名を複数形にしたものがその産み出した生命体を呼ぶ言葉になるならば、アダムの複数形であるアダムスが使徒のことを指すと考えるのが最も自然である。

ただ疑問として残っていたのは、
普通の「使徒」と、「アダムス」と呼ばれる使徒は違うのか、同じなのか?
違うのだとしたら、何が違うのか?

ここがどうしてもわからなかったのだ。

つまり「アダムス」とは、使徒の中でもとりわけ、ゼーレが使徒になったものを指すのではないか?

「ゼーレのアダムス」の部分をどう解釈するかによるのだが、正直、確信はない。
しかしそう解釈すると、いろいろと辻褄が合う点が多くなってくれて、私としてはこの説を推したい気分がするのである。

例えば『ヱヴァQ』に出てきたゼーレのモノリス型コンピューター。

私はあれは、ゼーレたち本人ではなく、ゼーレの心を宿らせたコンピューター、つまり旧エヴァでいうマギ・コンピューターに対応する要素であるという説を提唱していた。

ゼーレの心を宿らせたコンピューターがあるということは、ゼーレのヒトとしての肉体そのものはもうこの世にはいない、ということだ。

またゼーレが使徒(アダムス)になっているとすれば、『ヱヴァQ』でのゲンドウの「あなた方も魂の形を変えた」というセリフにもやっと答えが出たことになる。

アダムスは「全身がコア」であり、コアとは「魂が物質化したモノ」である。
「魂の形を変えた」とは、つまりそういうことだ。

それでは残された問題、ゼーレが望む「神殺し」とは何なのか。
そして碇ゲンドウの言う「諦観された神殺し」とは何なのか、ということだ。

ここで真打・碇シンジ君にご登場願おう。

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ゲンドウの想いと、シンジ君との対比について

最後に母のユイと再会したシンジ君は言う。

ずっと僕の中にいたんだね、母さん

そう、あくまでも神話的な世界観を中心に描かれた旧エヴァに対して、新劇場版の神は本来の観念的な存在として描かれた。

だから旧エヴァで神と融合したユイも、シンジ君の心の中に生きている存在としてしか登場しなかったのである。

続けてシンジ君は言う

父さんは、母さんを見送りたかったんだね。
それが父さんの願った、神殺し

このシンジ君の「解説」によって、碇ゲンドウが何故あそこまでユイと会うことにこだわったのか、その理由にも解釈の光がもたらされた。

そう、愛する人に、「サヨナラ」のひとことも言ってもらえず、永遠のお別れをすることになってしまった。
これ以上にツライことがあるだろうか。

ゲンドウはただひとこと「さようなら。出会ってくれてありがとう」と、最後のお別れをしたかったのだ。

このゲンドウがユイと会いたがった理由は、『:序』のラストのシンジ君と重なる。

『:序』のラストで、ゲンドウの息子であるシンジは、ユイのクローンであるレイに、戦いの前「さようなら」と言われる。
それがずっと引っかかっていたシンジは、戦いの後、レイに向かって「さよならなんて言うなよ」と涙を流す。

「さよなら」も聞かずに愛する人を失ったゲンドウと、
「さよなら」と言われたそのヒトと再会できたシンジ。

「さよなら」も言わずに消えたユイを、涙も流さず冷徹な態度で追いかけ続けたゲンドウ。
「さよなら」と言っておきながら生還したレイを、涙を流して迎えたシンジ。

この対比。

ここにまたユーミンの歌の歌詞がバシッとはまるのだ。

このシンエヴァという映画、本当に言葉の力がモノ凄い。
この映画、映像もスゴいが、私が一番気合を感じたのはこういった数々の言葉なのである。

惣流・アスカ・ラングレー

出典:imdb

「諦観された神殺し」とは

諦観・・・本質をはっきりと見きわめること。あきらめ、悟って超然とすること。
(出典:小学館デジタル大辞泉)

つまりゼーレが望む「神殺し」とは、この神の居ない世界で、唯一、生き残っている神。
つまり「ゲンドウ、お前の心に未だ巣食っている最後の神、ユイの幻影を消しなさい」と言うことなのではなかろうか。

もしくは、ゼーレの望む神殺しとは、単純にアダムやリリスを殺し、その座にとって変わる、と言うことかもしれない。
それに対して、碇ゲンドウは、「ゼーレさんたちの希望する神殺しとは違いますが、私なりにその言葉の本質を解釈した、私にとっての真の神殺しをやっておきますよ」と言う意味で「諦観された」という言い方をしたのかもしれない。

私としては、後者の可能性の方がしっくりくる。

何故なら、この映画において、「神殺し」と「父殺し」という2つの言葉にモチーフの関連性が認められるからだ。

つまりゼーレの目的は、神(アダム)の子である使徒を殲滅し、自らが使徒(アダムス)になって、それまでの使徒に成り代わって自分たちが神の子になる。
そして元々の神(アダム)を殺し、新たな神として君臨することなのだ。

まさに「神への儚きレジスタンス」ではないか。

この行為は「神殺し」であると同時に、「父殺し」でもある。
神の子(アダムス)がその父なる神(アダム)を殺すのだから

そしてミサトさんは碇シンジ君にこう語りかけた。

碇シンジ君、父親に息子ができることは、
肩を叩くか、殺してあげることだけよ。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』における「神殺し=父殺し」の構図が見えてこないだろうか。

シン・エヴァンゲリオン劇場版:||

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そしてラスト31分

シンエヴァで一番、予想を裏切られたのがここからのラスト31分であった。

そもそもエヴァは碇シンジ君の成長物語である、という固定観念から私は最後まで逃れられなかった。

ところが、シンジ君はクライマックスの手前でひと足早く成長。

シンジ君の成長が完遂したという表現はたくさんある。

ガキからオトナになるということは、ヒトに育てられる立場から、ヒトを育てる立場へとステージを登ること(綾波レイに名前をつけるところ)。

他にも例えば、エヴァの重要なテーマのひとつに「母性」があった。

エヴァには「母」のメタファーがたくさんある。
ミサトさんもそのひとり。

つまりミサトさんはシンジ君の母親がわりだった。

そのミサトさんが、別の誰かの本当の母になっている。
このエピソードもシンジ君の卒業の証。

また、ミサトさんの相手となった加持さんも、『:破』でシンジ君の父親のような役割を果たしていた。
ここにもシンジ君の成長への符号がある。

また、アスカに「バカシンジ」と言われて喜んでいたシンジが、アスカの質問に正解の答えを返し、「ちょっとは成長したみたいね」と言われるまでになっている。

こうしてクライマックスの手前でシンジ君は成長し、そこからは碇ゲンドウの物語になる。

「アナザ・インパクト(アディショナル・インパクト)」とはつまりそういうこと。

今度は「碇ゲンドウの番」てことだ。

そしてこれは、かつてエヴァをシンジ君の目線で見ていたわれわれが、今は年齢的にゲンドウの目線になっている、ということでもある。

だから「今度はわれわれエヴァ視聴者の番」てことにもなる。

ゲンドウがシンジに言う「無駄な抵抗を試みるか。これだから子供は苦手だ」
このセリフは最後、そのまま自分に返ってくることになるのだ。

そしてシンジ君は初号機に乗り、ゲンドウと戦うため、裏宇宙(マイナス宇宙)へ。

裏宇宙とは、早い話しがわれわれが生きている現実世界ということじゃないか、と思うのだ。

碇シンジ

碇シンジ(出典:imdb

真希波・マリ・イラストリアスの「役割」と「目的」とは

この神不在の新劇場版の世界観で唯一、神らしき存在がひとりいる。
それが真希波・マリ・イラストリアスである。

私のYouTubeの書き込みで素晴らしいヒントがあった。
真希波の「マキナ」はラテン語の「Machina(機械)」演劇用語でいう「デウス・エクス・マキナ(機械じかけの神様)」の「マキナ」なのだ、というのだ。

なるほど。

「デウス・エクス・マキナ」とは、演劇用語で、お話しが入り組んで収拾がつかないほど複雑になってしまうと、最後に神様が登場して、一気にお話しをまとめてしまうという、ストーリー作法上の方法論を指す。

つまり真希波・マリ・イラストリアスの役割とはこれである。

マリが機械で出来ているのかどうかは知らないが、アダムスの器をひとつにまとめ上げ、全てのカオスに幕を引く。
そして、浄化された各キャラクターの魂を回収してまわり、書き変わった世界のしかるべき場所へ返してゆく。

後でマリさんが迎えに来る

ちなみに『:破』でマリが言っていた「自分の目的に大人を巻き込むのは気後れするな」あのセリフ。

結局マリがあそこで言っていた「目的」とは何かというと、もちろん、これらの「役割」のことではない。

「デウス・エクス・真希ナ」としての「役割」のついでに、マリには果たしたい「目的」があったのだ。

そのひとつは、大学時代の憧れのユイ先輩と再会すること。
そして、ダブルヒロインであったレイやアスカを差し置いて、この物語のメイン・ヒロインの座を獲得することである。

ラストを見たら、それ以外の何の解釈がありえると言うのか。

真希波・マリ・イラストリアス

真希波・マリ・イラストリアス(出典:imdb

エヴァンゲリオンよ永遠に

最後に、私は旧エヴァでの碇ユイが言った

エヴァは永遠に生きていられます

というセリフの本当の意味がやっとわかった気がした件。

ここでいう「永遠」とは、「時空を超えて」という意味だったのではなかろうか。

旧エヴァと新劇場版の初号機は同じ機体なのである。

つまり「エヴァは永遠に生きていられる」とは、永遠に繰り返す円環の理を超えて存在し続けることができる、ということなのだと思う。

最後に実写の映像が映るのは、これは裏宇宙を通して、アニメ(創作)の世界と現実の世界がひっくり返ったという意味なのだと私は受け取った。

「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」とは、つまりわれわれ皆んなに「現実に戻れ」と言っているのである。
(その心は、庵野監督「もう僕にエヴァを作らせるなよ」ということだ)

そうしてひっくり返った現実のこの世界のどこかで、シンジ君やマリが今も生きているのだ。

つまり新たに書き換えた世界とは、われわれがいるこの世界ということである。

われわれもエヴァの呪縛にかかり、ずっと空想の世界に生きてきたのだ。

新たにはじまった新世紀とは、これからわれわれが新たに生きてゆく、エヴァの新作がもう出ないこの世界。

そしてこの新たな現実世界にシンジ君やマリやその他のキャラクターたちがどこかで生きているかもしれない、という概念は、ささやかな、庵野監督やエヴァ・スタッフたちからの、われわれファンへの贈り物なんだと思う。

エヴァのみんなも現実にやってきましたよ。
だからこれを見ている皆さんも、これからは現実で頑張ってください。

なんてね。

この映画のラストには、エンディング・テーマが2曲かかった。

まず『One Last Kiss』がかかる。
これはこれまでのエヴァンゲリオンへのお別れの曲である。

次に『Beautiful World』がかかる。
これは、われわれがこれから生きてゆくこの世界への花向けの曲である。

まあでも、ここまでしてもらって悪いけど、私にとってのエヴァの呪縛はまだあと数年は続きそうだ。
(YouTubeのエヴァ考察動画の作成、このブログの記事の整理、等々・・・)

 * * *

なるべく簡潔にまとめたけど、話したい要素が物理的に多すぎて、長い記事になってしまった。

まだまだ言い足りないことがあるが、ひとつひとつの要素にフォーカスして、数ヶ月後に複数のYouTube動画でさらに詳しく語っていきたいと思っている。

ご興味ある方は、ぜひチャンネル登録してお待ちください。

GOOD MOVIES 映画レビュー&コラム
...

YouTubeバージョンもぜひご覧ください

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』冒頭を分析することで、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』ラスト30分が完全に理解できる解説動画(一部18禁)。

YouTube版『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』レビュー動画

ネタバレありはこちら

ネタバレ無しはこちら

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評価

ありがとう、すべてのエヴァンゲリオン
★★★★

Good Movie 認定


『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を見る

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コメント

  1. ペペロンチーノ より:

    「後者を選んだゼーレのアダムスを利用した・・・」は、「ゼーレによるアダムスを利用した」、ではないですか?

    • TOM TOM より:

      そうですね、もちろん、その可能性もあります。

      そもそもの話し、この記事は、

      「『ゼーレのアダムス』をどう解釈するべきかなあ。
      『ゼーレによるアダムス』とも受け取れるし、
      『ゼーレの成れの果てとしてのアダムス』とも受け取れるなあ。
      後者と受け取った方がキレイに辻褄が合うなあ」

      ということを言っている文章です。
      言葉足らずで申し訳ありません。

      この文章だとどちらとも受け取れるので、ここだけでは判断のしようがないですね。
      とにかく私は今のところ「ゼーレによる」じゃない方だと考えてます。
      新しい情報や気づきがあれば変わる可能性があります。

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