作品データ
原題:The Walking Dead (season 2)
監督:アーネスト・ディッカーソン、グウィネス・ホーダー=ペイトン、他
原作:ロバート・カークマン、トニー・ムーア、他
脚本:アーデス・ベイ、ロバート・カークマン、他
出演:アンドリュー・リンカーン、ジョン・バーンサル、サラ・ウェイン・キャリーズ、ローリー・ホールデン、スティーヴン・ユァン、ジェフリー・デマン、チャンドラー・リッグス、ノーマン・リーダス
制作:2011年、アメリカ
あらすじ(ネタバレなし)
フォートベニング基地へ向かうリックたち。高速道路の真ん中でウォーカーたちに遭遇し、おまけにキャンピングカーが故障して立ち往生。ソフィアが行方不明になり、近くの森でカールが見知らぬ男に誤って銃で撃たれて重傷を負う。カールを撃った男はオーティスといい、近くの農場に家族と住んでいた。リックたちはオーティスの案内で農場まで重体のカールを運び、そこで一行はしばらく生活を共にすることになる。しかしその農場には恐るべき秘密があった。
『ウォーキング・デッド』シーズン2の感想
ストーリーが先に進まなくて退屈。
農場に固定されたシチュエーションで、ひたすら人が喧嘩しているのを眺めているだけ、みたいな印象のシーズン2。
ゾンビが群れでやってきて、車の下に隠れてやり過ごそうとするところとか。
シーズン1の感想で書いたこのドラマのゾンビ基本ルール「小走り」「音に反応」「群れで行動」がまた絶妙な使い方をされていた。
こういうのをもっといろんなパターンでみせてくれたらよかったのに。
シーズン2の問題は何と言っても、人間模様のじれったさに尽きる。
まともな話し合いも想像力を働かせた協力体制もとれず、何かと言うとすぐ疑心暗鬼にかられ、言い合いや喧嘩がはじまる。
ふと、現代ゾンビ映画の始祖『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』を撮ったジョージ・A・ロメロの言葉を思い出した。
ロメロは後年インタビューで『ナイト・オブ〜』のテーマは何ですかと聞かれ、「コミュニケーション不足だ」と答えた。
ちゃんと状況を正しく理解して、事態を打破する方策を話し合うなりすれば助かったはずなのに、コミュニケーションが下手くそなばかりにゾンビに喰われて死ぬ人を描くことで、コミュニケーションの大切さを描きたかった、というのだ。
アメリカ映画を観ていていつしか気がついたのだが、これはロメロの映画に限らず、アメリカのパニック・ホラー系の映画すべてに言える普遍的なメッセージ性なのだと言える。
こんなときこそ冷静になって前向きに話し合わないといけないのに、とにかくアメリカ映画は何かにつけて疑心暗鬼にかられ、喧嘩が始まる。
見ていてじれったいし、頭悪すぎ、と思うことも多いが、なんども繰り返し訴えていかなければならないパニック・ホラー系映画の存在意義でもあるから、そういうくだりがあるのは仕方がないのかな、と自分を納得させていた。
しかし、これで本当に「変事におけるコミュニケーションの大切さ」って伝わっているのか?
いやそれ以前に、コミュニケーションの大切さばかりが収束の要なのか。
と、このドラマを見ているうちに疑問を抱くようになった。
タランティーノの映画を見よ。
タランティーノの映画に出てくる登場人物はみんなアメリカ映画にしては驚くほどコミュニケーションがうまい。
無駄な喧嘩や疑心暗鬼などほとんど描くことなく、達人級のコミュニケーションのうまさで危機を乗り越えるかに見えて、ちょっとしたボタンの掛け違いや、立場の違い、登場人物の個性やこだわりによって、人が死ぬことになる。
立場の違いとは『イングロリアス・バスターズ』の酒場のシーンのようなことで、こだわりとは『レザボア・ドッグス』のラストのようなことだ。
『レザボア・ドッグス』に限ってはコミュニケーション不足も重要なモチーフとして描かれていたが、さすがタランティーノだけあって、こんなドラマとは比べものにならないくらい効果的に組み込まれていたではないか。
もちろん、変事の収束にコミュニケーションは大切なのだが、それ以上に深い人間への理解、人種・国境を超えた多様性に対する受容力、ひいては想像力なんじゃないかと思うのだ。
それもコミュニケーション能力のひとつといえばそうなんだけれども。
ただ疑り深いだけとか、喧嘩っ早いだけとか、そんなのご大層に繰り返し描くほどのモチーフじゃないんじゃないか。
ただお話しをややこしくしたいために、能力の無い脚本家が姑息な手口を使っているだけなんじゃないかと、こちらこそ疑り深くなるってもんだ。
そういえばこないだ『LOST』というドラマをラストシーズンまで見たが、あれもまあよく登場人物たちが飽きもせずに疑心暗鬼にかられて喧嘩ばかりしてたっけ。
それで登場人物たちの絆みたいなのをオチにされても説得力なんてあったもんじゃない。
あとそれに加えて、このシーズン2がただダラダラとして思える最大の原因は、ゾンビによって滅亡に追い込まれた人類の、生きてゆく本能を象徴するようなストラテジーに著しく欠けているからだ。
何か音がするものを囮にしてウォーカーをおびき寄せて一斉に退治するとか、外堀や外壁を作ってウォーカーから本拠地を守るとか、みんなでアイデアを出しあえばいくらでも状況を改善してゆく方法はありそうなもんだが、ただ見張りを立てるとか、ゾンビが来たら逃げるとか、そういう単純なことだけしかやらない。
誰もそれ以上のことを思いつかない。
それでいて、「ゾンビよりもっと怖いのは人間だった」みたいなよくありがちなコンセプトかというと、そんな感じでもない。
昔『食人族』というイタリア映画があった。あれはアメリカの探検隊がアマゾンのジャングルで原住民に横暴を働き、返り討ちにあって喰われてしまうというストーリーで、最後のオチが「果たして本当の人食い人種はどちらだったのか」なんて教授の一言で終わっていたっけ。
ああいうのと比べると、この『ウォーキング・デッド』の場合は、これだけキャラクターがいたら性格の悪いヤツの一人や二人いるだろう、という範囲を超えていない。
考えてみたら、シーズン1の第1話を見たときに「このドラマ、おもしろそう!」と思った、あのときに感じた期待以上のものをほとんど見せてくれないままここまでききちゃったなあ。
↓ここから先はネタバレあり↓
『ウォーキング・デッド』シーズン2を見る かろうじてこのシーズン2で印象に残った場面のひとつとして、ゾンビになったソフィアが納屋から出てくるシーンがある。アメリカの映像作品であんな鬱な展開にお目にかかるとは思わなかった。
実に衝撃的だった。
こういう、わずかに例外的なシーンを残して、大部分のエピソードは圧倒的にアイデア不足。
だいたい、どいつもこいつも世界の終わりみたいなメンタリティで、誰もゾンビをすべて退治してここから新しい世界を築き直そう的な概念を持ち出さないところがヘン。リアリティに欠ける。
その概念をもち出しちゃったらストーリーが進めにくくなるとでもいうのだろうか。
むしろ新世界を再構築する希望をチラつかせた方が、最後の「全員感染している」事実もさらに衝撃的に響いたんじゃないかね。
こう考えると、ゾンビのドラマってのも、まだやれることたくさんあるから、もっと独創性のあるクリエイタがー同じような企画やらないかなあ。
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– 追記 –
ドラマじゃなくて映画だけど、やってくれていました↓
評価
シーズン3は見るか考え中。
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