作品データ
原題:The Midnight Gospel
監督:ペンデルトン・ウォード
脚本:マイク・L・メイフィールド、ダンカン・トラッセル、ペンデルトン・ウォード、ブレンドン・ウォルシュ
出演:ダンカン・トラッセル、ナターシャ・レジェーロ、ドリュー・ピンスキー
制作:2020年、アメリカ
あらすじ(ネタバレなし)
クランシー・ギルロイは宇宙配信『ミッドナイトゴスペル』を放送しているスペース・キャスター。
シミュレーターを使い、毎回異なるアバターを選んで他の惑星を訪れ、そこで出会ったゲストにスピリチュアルな哲学についてのインタビューをする。
インタビュー内容はいつもサイケデリックな映像とリンクしてゆき、クランシーは生と死を体験してゆく。
『ミッドナイトゴスペル』の感想
アニメって絵だから、なんでも出来る。
でもこれまで人類は、このなんでも出来るメディアを使って、本当になんでもやってきただろうか?
そんな疑問に答えてくれるのがこのアニメだ。
「お前ら、なんもやってきてなかっただろ」と。
その点で、これはアニメがアニメであることに目覚めたアニメであると言える。
とくに第1話を見たときの衝撃はスゴかった。
あまりにもぶっ飛んだ映像の連続に脳が麻痺して私もゾンビになってしまうかと思った。
しかし注目すべきはその内容。
舞台はどこか他の星。
タイトルの『ミッドナイトゴスペル』とは、主人公がやっている宇宙配信(スペースキャスト)の名前。
地球でいう「Podcast」の宇宙ワイド版だ。
毎回、主人公のクランシー・ギルロイがシミュレーターというマシンを使い、異なるアバターを使って、バーチャル的に他の惑星を訪れ、そこで出会ったゲストにインタビューをする。
それを帰ってからスペースキャストにアップする、という活動をやっている。
クランシーの声をやっているのはダンカン・トラッセルというコメディアン。
このインタビュー内容というのが、ダンカン・トゥルッセルが実際に放送しているポッドキャスト『The Duncan Trussell Family Hour』の音源を元にしているのだ。
だからインタビューそのものはガチで、その内容に合わせてストーリーを構築し、画を当てがって完成されたのがこのアニメなのである。
だから舞台は異星なのに、トークの内容には「自分はアメリカ生まれの白人で東洋思想に興味がある」みたいな地球ローカルな話題が構わず出てきたりする。
インタビューのテーマはスピリチュアルな思想&哲学&ライフスタイルがメイン。
このアニメの見方は注意が必要で、英語のリスニングが出来ない方は、2回目を見た方がいいと思う。
1回目は映像を味わって、2回目は字幕をゆっくり読む、といった具合に(もしくはその逆)。
私は英語のリスニングは出来るが、話している内容がかなり高度なので、すべて完全に理解するのは難しく、ほとんどのエピソードを2回以上見た。
それから、各エピソードを見る前に、その回のゲストの名前を検索して、どんな人かわかった上で見るとさらに見やすくなる。
例えば第3話のゲストはダミアン・エコールズという方で、彼は殺人罪で刑務所に入り、無実だと分かって釈放されたという経歴の人。
東洋思想に興味があり、刑務所の中で悟りを開き、「刑務所の中も外も変わらない」境地へと至ったという。
また、第4話ゲストのトゥルーディ・グッドマンさんは、マインドフルネスの専門家。
第6話のゲストはデイビッド・ニックターンという人で、テレビ番組の音楽を担当する作曲家。
チベット仏教の流れを汲む仏教指導者でもあり、瞑想家としても知られている。
第7話のゲストはケイトリン・ダウティーという葬儀屋(?)さん。
納棺師という職業が成り立つことになった歴史的経緯などを通して、人類が死というものをどう扱ってきたかなどを考察しつつ、死と向き合うことの大切さを解説した、みたいな内容。
特に私が素晴らしいと思ったのは先にも言及した第1話。
その次に好きなのが第5話。
(ちなみに、なんかいい感じのことばかり書いているが、私はこのアニメ、実はあまりいいと思わなかった。この記事の最後は酷評で終わるので好きな方はご注意ください)
↓ここから先はネタバレあり↓
このアニメの素晴らしい点は、スピリチュアルなトークの内容がサイケデリックな映像とリンクしているという構成。
例えば第1話のゾンビのエピソードでは、主人公とゲストがドラッグについて語り合っている。
ゲストは「この世に悪いドラッグなど存在しない。すべては状況次第なのだ」という思想を繰り返し訴えている。
このエピソードの最後で主人公とゲストがゾンビになってしまうのだが、ここで主人公のゾンビ化に伴い、描写もゾンビ視点に切り替わる。
するとゾンビたちはみんな楽しくハッピーに歌を歌っているのだ。
つまりこのエピソードにおけるゾンビはドラッグのメタファーなのである。
怖いゾンビも、ゾンビの視点に立ってみると、ハッピーな世界が広がっている。
すべては状況次第、つまり視座の違いということなのだ。
また、第2話では主人公とゲストが死と再生について語り合っている。
その間、アニメの画面では、主人公とゲストは挽肉工場でミンチになり、別のモノに生まれ変わる様が描かれてゆく。
第5話は刑務所が舞台で、同じことを繰り返すループもの。
繰り返しながら、刑務所のフロアをひとつひとつ上にあがってゆく。
その過程で何度も死ぬ。
死ぬたびに神様に心臓を取り出され、天秤の上に乗せられて検査をさせられる。
生まれ変わるたびにステージが上がってゆく。
最後はついに解脱する。
そんな感じの、刑務所からの「脱獄」と悟りの境地に至る「解脱」をかけたうまい構成。
こんな感じで書いていくとかなり興味深い内容のアニメに思えるが、実は私はこのアニメ、最後まで見たらそれほどいいアニメだとは思わなかった。
トークの内容には正直、それほど興味をそそられないし、トーク内容と映像表現とのリンクのさせ方、および映像表現そのものは、いくつかの秀逸なエピソードを抜かして、ほとんどはインパクト不足。
というのも、例えば『エヴァンゲリオン』など、哲学的な内容と映像表現とのリンクのさせ方という点では、日本のアニメにこれよりはるかに高度で深いものがいくつもあるのだ。
第5話なんてところどころエヴァっぽかったり、森見登美彦の『四畳半神話大系』っぽかったりして、そういう優れた他の創作物を頭に思い浮かべるたびに、このアニメの印象が私の中でストンと落ちる。
第1話なんて大傑作だけれども、全体としてみると、見栄えほど大したアニメではないかもしれない。
嫌いなのは最終回の第8話。
主人公のお母さんがゲストで、声をやっているのもダンカンの実のお母さん。
(お母さんはクランシーのことを「ダンカン」の名前で呼んでいる)
ダンカンのお母さんは2013年にお亡くなりになっている。
このアニメでは既に故人となっているダンカンのお母さんと、2020年の今日に、アニメの世界で再会している、というような感じ。
アニメのなかで、ダンカンのお母さんが死ぬシーンがある。
お母さんとのお別れをアニメで再現したのかな、と思ったら、その後、ダンカンがいきなり妊娠し、小さな女の子を出産する。
この女の子がまたお母さんになり、また話が続く。
このエピソードの後半で、主人公のクランシー(ダンカン)が何度も涙を流すのだ。
これがたまらなく嫌いだった。
これは私の好みだからしょうがないことだが、主人公を泣かせずに、つまり「感情」にフォーカスせずに、何かもっと壮大なものを感じさせてくれて、見ている私たちを泣かせてほしかった。
まとめると、ポッドキャストをベースにアニメを作るというアイデアはいい。
しかし、そのアイデアは絶妙に生かされていたかというと、第1話と第5話以外はそれほど広がった気がせず、ありきたりのサイケデリックな映像に、こじんまりと収めたという印象が大半。
ほとんどのエピソードは見なくてもよかったし、最終話に至っては本当に嫌いだった。
第1話は傑作だったのに。
評価
第1話は超オススメだけど、もし第2話を見て少し疑問を感じたら、残りのエピソードはほとんどそんな感じなので、見なくてもいいかもしれません。
★★★★★
コメント
貴方はサイケデリックの経験がないから、このアニメを見ただけでは全部わからないのだろう。
コメントありがとうございます。
私は30年以上前からドラッグ・カルチャーに興味を持ち、書籍を読んだりそのての友人たちと交流してきたり、自分でも10年以上にわたってスピリチュアル系のPodcastをやってきたりしましたけど、このアニメは浅いと感じました。
ドラッグの実経験の有る無しでそう印象が変わったとも思えないんですけどね。
それともキメて見るとまた違うとか、そういうお話しでしょうか。