- 作品データ
- あらすじ(ネタバレなし)
- 『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH (TRUE)2 / Air / まごころを、君に』の感想
- まさに堂々としたエヴァの完結編
- 編集や構成に関する雑感
- 意外と解りやすく説明されてるとこ
- 心理描写の白眉(最も優れた部分)はこちら
- 使徒が人間へと近づいてゆくモチーフの推移
- ついに始まった! サードインパクト
- 「綾波レイとは何者だったのか?」を一言で説明してみる
- 「お母さんみたい」 – その言葉が果たした重要な役割について
- 二人目の綾波レイが死ぬ直前に浮かんだ碇ゲンドウの笑顔が意味するもの
- サードインパクトの主導権が碇シンジに委ねられた必然とは
- 「繰り返しの物語」とは、すなわち「人間の物語」ってこと
- 碇シンジが最終的に至った結論について
- 「再生(新生・再構築・リブート)」に向かって・・・
- もうひとつの着地地点 – 碇ユイの場合
- YouTubeバージョンもぜひご覧ください
- 評価
作品データ
監督:庵野秀明、鶴巻和哉
脚本:庵野秀明
出演:緒方恵美、三石琴乃、林原めぐみ、宮村優子
音楽:鷺巣詩郎
制作:1998年、日本
あらすじ(ネタバレなし)
碇シンジは精神的に追い詰められ、生きる気力を失っていた。
ミサトはそんなシンジを奮い立たせ、エヴァ初号機に乗せようとする。
ゼーレは人類補完計画の主導権を碇ゲンドウから取り戻すため、虐殺の軍隊をネルフに送り込む。
応戦するネルフの職員たち。
その裏で、リツコは密かな計画を進めていた。
廃人となっていたアスカは、エヴァンゲリオン弍号機に乗せられ、
初めて弍号機のコアが母だったことに気が付き、復活。
9体のエヴァ量産機と戦う。
ゲンドウは人類補完計画を遂行するため、
綾波レイを連れてリリスのいるセントラルドグマへと向かう。
様々な思惑が交差するなか、
サードインパクトがその幕を開ける。
そしてすべての主導権は彼ひとり委ねられた・・・。
『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH (TRUE)2 / Air / まごころを、君に』の感想
TVシリーズ『新世紀エヴァンゲリオン』全26話の考察と感想に続いて、旧エヴァ完結編の考察と感想を書きたいと思います。
まさに堂々としたエヴァの完結編
この作品は、1997年に公開された『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』と『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』の2つを合体して、翌年1998年に公開したもの。
『シト新生』と『Air/まごころを、君に』はリアルタイムで劇場に見に行った。
当時の感想は、『シト新生』は「おおっ!」って感じだったが、『Air/まごころを、君に』は「う〜ん・・・」だった。
今回、23年ぶりに見てみて、思ったよりわかりやすいストレートな言葉でちゃんと説明されていること、編集や画など映像が実に丁寧に作り込まれていることに新たな感動を覚えた。
逆に消化不良のままだったのは、人間の描き方に少し無理を感じ、綻びが目立ったこと。
しかし全体としてみたら、やっぱりこれ以上の堂々たる結末はあり得ないというほど、見事なエヴァンゲリオン完結編だったと思う。
編集や構成に関する雑感
3つのパートに分かれていて、まずTVシリーズの第弐拾四話までのダイジェスト『DEATH (TRUE)2』があって、第弐拾伍話をリメイクした『Air』が続いて、第弐拾六話をリメイクした『まごころを、君に』が最後にくる。
『DEATH (TRUE)2』はダイジェストとは言っても、ただのダイジェストではない。
ちょっとしたコラージュが施されているのだ。
関係ないシーンどうしをさも意味ありげに繋げることで、別のストーリーを浮かび上がらせているようにもみえる。
これもまた新劇場版のような、別の世界を暗示しているのかもしれない。
『Air/まごころを、君に』は、シンジくんの感情の動きに着目すると、ちゃんとTV版の第弐拾伍話と第弐拾六話の内容と連動しているところがおもしろかった。
意外だったのは、映画館で見たときはチンプンカンプンだったのに、こうして改めて見てみると、結構わかりやすい言葉で説明されていたところ。
TV版で描かれてきた抽象的な要素ひとつひとつが意味ある点の集まりとなって、キレイな線でひとつに結ばれたようなカタルシスがあった。
↓ここから先はネタバレあり↓
意外と解りやすく説明されてるとこ
例えば私はずっと、碇ゲンドウがどうしてあそこまでシンジくんに冷たいのか疑問だったのだが、なんてことない、ゲンドウ自身がかなりストレートな言葉で説明しちゃってる。
碇ゲンドウ「俺がそばにいるとシンジを傷つけるだけだ。だから、何もしない方がいい」
ユイ「シンジが怖かったのね」
ゲンドウ「自分が人から愛されるとは信じられない。私にそんな資格はない」
カヲル「ただ、逃げてるだけなんだ。自分が傷つく前に、世界を拒絶している」
ユイ「人の間にある、形もなく目にも見えないものが」
レイ「怖くて、心を閉じるしかなかったのね」
ゲンドウ「その報いがこの有り様か。すまなかったな、シンジ」
碇ユイがエヴァのコアに留まった理由もわかった。
ユイ「ヒトはこの星でしか生きられません。でも、エヴァは無限に生きていられます。その中に宿る人の心とともに。たとえ、50億年経って、この地球も、月も、太陽さえなくしても残りますわ。たった一人でも生きていけたら……。とても寂しいけど、生きていけるなら……」
冬月「ヒトの生きた証は、永遠に残るか……」
上記のセリフのやりとりは後でもう一度言及するので覚えておいてください。
また、ネルフが制圧されかかり、ゲノドウが人類補完計画を遂行しに去るとき、冬月に「冬月先生、後を頼みます」と声をかける。
冬月はそれに「わかっている。ユイくんによろしくな」と返す。
このシーンを見ると、TVシリーズの第弐拾壱話で、最初あれほどゲンドウを毛嫌いしていた冬月が、どうしてその背後にピタリとくっついて計画をサポートしてきたのか、その理由にパーッと光が照らされたような気がした。
もう薄々わかっていたことでも、「そういうことだろうな」と思っているのと、こうして生きたセリフによって光が当たるのとでは、違うものだ。
心理描写の白眉(最も優れた部分)はこちら
いろんなドラマもあった。
一番スゲェと思ったのは、赤木リツコのくだり。
「私、バカな事してる? ロジックじゃないものね、男と女は。そうでしょ、母さん」
と言って、何かよからぬ仕掛けを用意しながら、カスパーを撫でるリツコ。
「同じ女どうし、私の気持ち、わかってくれるわよね」という意味でリツコは言っているのだが、後のシーンで、ナオコの心はリツコへの共感よりも、ゲンドウの肩を持つことになる。
所詮ナオコにとって、リツコは女同士である前に、自分の娘なのだ。
百歩譲って、ひとたび女同士としてみれば、ナオコにとってリツコは自分が愛した男と関係を持った女でもある。
それにナオコだってゲンドウを殺すなら、自分が殺したいに違いない。
女心は複雑だなあ。
なんで男で、しかもまだ30代の庵野秀明氏が、こんなドラマを描けたのか。
『ガンダム』以来、日本のロボット・アニメは逆に「人間」を描くことが本流となっていたが、間違いなく庵野秀明監督はその最先端をいく才能だったと言い切れる。
そして最後の使徒も「人間」なのだった。
使徒が人間へと近づいてゆくモチーフの推移
TVシリーズの後半から次第に使徒が人間に興味を示しはじめ、ついに見た目だけは完全に人間と同じ使徒が現れたのが渚カヲルくん。
そして最後の最後に、人間そのものが使徒としてネルフの前に立ちはだかるのだ。
このあたりも実に理路整然としたモチーフの推移ではないか。
そしてついにサードインパクトがはじまる。
一連のサードインパクトのシーンを見ていて、ふと、フランスのことわざを思い出した。
Partir, c’est mourir un peu.
(旅立ち、それは少しだけ死ぬこと)
ついに始まった! サードインパクト
アダムは最後までチラッと写った光の巨人のままだったが、リリスは綾波レイの姿で巨大化。
人類を産んでくれた、母なる神は「綾波レイ/碇ユイ」の姿で降臨するのだ。
なんだかこのあたりの映像は1カット1カットが丁寧に構成されていて、感動する。
実写部分があって、映画館の観客たちが映るところで、ふとYouTube版『新世紀エヴァンゲリオン』の感想で言った、「エヴァを見はじめた時点でわれわれ観客はリリスによってアンチATフィールドを実行され、エヴァの物語とひとつになっている」説の裏付けになっているなあ、としみじみ思った。
サードインパクトの直前、碇ゲンドウが綾波を前に、言う。
「ATフィールドを、心の壁を解き放ち、不要な身体を捨て、すべての魂をひとつに」
クライマックスでは、全人類のATフィールドがとりはらわれ、人間と人間との境界線が曖昧になり、あらゆる形は溶解し、神羅万象はひとつになってゆく様が描かれる。
カオルくんの「人の心が自分自身の形を作り出しているからね」という言葉がしみじみ感じられた。
形とは、他のモノとの境界線が引かれることによって、初めて成るのだ。
みんな人間ひとりひとりにATフィールドがあるからであり、だから人間はこの形をしているのである。
そしてシンジが最後に出した決断は、そんなヒトの形をした人間たちと、つまり、みんなと、「また、会いたい」だった。
「綾波レイとは何者だったのか?」を一言で説明してみる
なんでサードインパクトの最後の主導権はシンジの手に委ねられたのか?
これにはちゃんと理由がある。
それを説明するには、まず「綾波レイとはいったい何者か?」を解き明かさなすところから始めないといけない。
綾波レイとはいったい、何者だったのか?
この問いにひとことで答えろと言われたら、私はこう答える。
「記憶喪失の神様」
神様であったころの記憶を失くした神様、それが綾波レイなんだと思う。
少なくともそういう解釈の仕方をすることで、いろんな謎がスッキリする。
このモチーフを思いついたのは、『潮風のいたずら』というアメリカ映画を思い出したからだ。
『潮風のいたずら』とはどんな映画だったのかというと、まず冒頭で、ゴールディ・ホーン演ずる金持ちの女が記憶喪失になる。
そこにカート・ラッセル演ずる肉体労働者の男が近づき、「俺はお前の夫なんだぜ」と嘘をついて、一緒に住みはじめる。
つまりカート・ラッセルはゴールディ・ホーンが記憶喪失なのをいいことに、口から出まかせを言って、家政婦がわりに家の掃除をさせたり料理をつくらせたり子供の世話をさせたりして利用するのである。
いわゆる碇ゲンドウがやっているのはそういうことなのだ。
神様が記憶を失っているのをいいことに、それを利用して自らのヨコシマな計画を実現しようとしているのである。
綾波レイはそれに気がついたとき、「私はあなたの人形じゃない」と言ってゲンドウを拒絶するのだ。
そして綾波レイに、神様であることの記憶を取り戻すきっかけを与えてくれたのが、他ならぬシンジくんなのだと思う。
「お母さんみたい」 – その言葉が果たした重要な役割について
第拾伍話で、雑巾を絞っている綾波レイを見て、シンジくんが「お母さんみたい」と言うシーンがある。
私はあのあたりから、綾波レイのリリスとしてのオルターエゴが意識下で強く形に成りはじめていたのではないかと想像している。
エヴァンゲリオンでは「母性」が重要なモチーフとなっていることは『新世紀エヴァンゲリオン』の考察でも書いた。
そして「母性」とは、生命の生みの親であるリリスのメタファーでもある。
綾波レイの姿形はシンジくんのお母さんのクローンだから、シンジくんは記憶の奥底に残っている母親の面影を無意識に綾波レイに見出して、「お母さんみたい」と言ったのだろう。
しかし、綾波レイにとってその言葉は「母なる神」であるリリスとしての記憶を呼び起こす発動スイッチになったのだ。
私は、綾波レイが完全にリリスとしてのアイデンティティを取り戻したのが、第弐拾四話なのだとみている。
渚カヲルがセントラルドグマに到達したとき、そこに綾波レイが現れるシーンがあった。
自分と同質の存在である渚カヲルと出会ったこと、そしてそのカヲルが自分の本体であるリリスと対峙するのを見ることで、何か呼び覚まされるものがあったのだろう。
あのときに一瞬だけ使徒と同等のATフィールドが発生するという現象が確認されたことが何よりの証拠である。
二人目の綾波レイが死ぬ直前に浮かんだ碇ゲンドウの笑顔が意味するもの
それでは何故、シンジくんにきっかけを与えられてから、覚醒するまでにあれほどの時間がかかってしまったのか。
私はこれは、綾波レイの心に植え付けられた、碇ゲンドウに対する特別な感情が障壁になっていたのではないかと考えている。
第弐拾参話で、綾波レイが第16使徒アルミサエルに侵食され、自爆しようとする直前、「碇くんとひとつになりたい」と呟き、涙をこぼす。
ところが死の瞬間、脳裏に浮かんだのはシンジではなく、碇ゲンドウの笑顔なのである。
私はこれがずっと疑問だったのだが、あれは2人目の綾波レイの死とともに、碇ゲンドウへの愛情が消滅したことを意味していたのではないか、と思い至った。
綾波レイは肉体が滅んでも、新しい肉体に魂を移し変えることで、再生することができる。
その際、バックアップをとっておいたデータとしての記憶は移植することができるが、感情面は引き継がれないという。
このことがよくわかるのが、3人目の綾波レイが初めて自宅へ帰ったとき、それまで大切にとっておいた碇ゲンドウのメガネをつかんで、ギリギリと握り潰すような仕草をするところ。
碇ゲンドウが自分を利用しようとしていたことに薄々気が付きはじめたのがこのあたりなのではなかろうか。
そもそも、綾波レイが碇ゲンドウに特別な愛着を抱きはじめたきっかけだと思われるのが、第伍話で、零号機が暴走した際に、碇ゲンドウが火傷をしてまでエントリープラグをこじ開けて綾波レイを助けたシーンである。
そもそも綾波レイは、肉体が滅びても替わりはいるのだ。
それなのに、碇ゲンドウはどうしてあそこまで必死に綾波レイを助けたのだろうか?
私はこれも長年の疑問のひとつだったのだが、綾波レイを利用して計画を成功させるために、彼女の信頼と愛情を育てておく必要があったのだと考えれば納得がいく。
しかも、碇ゲンドウにとって、綾波レイに優しくすることは、ユイと再び会える命脈に等しい行為なのだ。
そしてその綾波レイは、ユイと同じ顔をしているのである。
碇ゲンドウの中で、綾波レイを大事にする行為と、奥さんのユイとひとつになりたいという気持ちとの境界線が曖昧になり、ついには綾波レイへの愛情がユイへのそれと同等になってしまうのも無理はないと思える。
人間は、人間同士いろいろな境界線を引いて傷つけ合うが、ひとりの人間の心の中の感情に境界線を引くのは苦手な生き物なのだな。
サードインパクトの主導権が碇シンジに委ねられた必然とは
しかしそれまで大事にしてきた2人目の綾波レイは死に、3人目の綾波レイの覚醒によって、サードインパクトの主導権はシンジくんの手にころがりこむ。
リリスがシンジくんを選んだのは、もちろん自分が神様であることを思い出すきっかけを与えてくれたという点も大きいとは思うけれど、実はそれ以上の必然性がある。
前回の『新世紀エヴァンゲリオン』のレビュー記事で書いたけれども、エヴァンゲリオンを語る上で、メタファーの問題を避けては通れない。
エヴァンゲリオンではあらゆる要素が寓話的なメタファーに満ち満ちている。
そして言ってしまえば、碇シンジは人類そのもののメタファーなのである。
シンジくんはわれわれ人類の代表なのだ。
つまりリリスがシンジくんを選んだのは、彼が最も人間らしい決断を下せると思ったことが大きいのではなかろうか。
「繰り返しの物語」とは、すなわち「人間の物語」ってこと
庵野秀明監督も発言しているように、「エヴァンゲリオンとは繰り返しの物語」である。
お互い傷つけあったり、拒絶しあったりするけれど、それでも、そうして、もみあいながら、先へ進もうとする。
アダムもリリスもそんな人間が好きなのだ。
でも、いやだからこそ、人類が神のような完全生命体に進化してしまうことまでは好まないのだ。
渚カヲルはシンジくんが好きで、自らの死をもって人類に未来という席を譲った。
ここだけみても、シンジくんが人類のメタファーだということがわかる。
最後に最も人間らしい選択を下せる人類代表が、他ならぬシンジくんなのである。
だからアダム(渚カヲル)はそんなシンジくんに譲ったのだし、リリス(綾波レイ)はゲンドウを見限って、すべてをシンジくんに委ねたのだ。
そんなことに思いをめぐらせていみてふとTV版のエピソードをひとつひとつを振り返ってみると、ヤシマ作戦も、シンジとアスカの連携攻撃も、シンジくんが初号機に取り込まれて融解してしまったのも、すべてそのためのアプローチだったんじゃないかという気がしてきた。
碇シンジが最終的に至った結論について
最後の方の言葉はどれももう、ただ書き出すだけでコメントはいらない、みたいな次元のオンパレード。
サードインパクトが崩壊してゆくさ中、シンジくんのまわりに再び仲間たちが集まってくる。
シンジくんは尋ねる。
シンジ「僕の心の中にいる君達は何?」
レイ「希望なのよ。ヒトは互いに判りあえるかも知れない……ということの」
カヲル「好きだ、という言葉とともにね」
シンジ「だけど、それは見せかけなんだ。自分勝手な思い込みなんだ。祈りみたいなものなんだ。ずっと続くはずないんだ。いつかは裏切られるんだ。僕を……見捨てるんだ」
しかしシンジくんは結論に達する。
シンジ「でも……僕はもう一度会いたいと思った。その時の気持ちは本当だと思うから」
そしてシンジくんは母とも再会する。
ユイ「もういいのね」
シンジ「幸せがどこにあるのか、まだ判らない。だけど、ここにいて……生まれてきてどうだったのかは、これからも考え続ける。だけど、それも当たり前のことに何度も気づくだけなんだ。自分が自分でいるために」
まさに繰り返しの物語。
人間だからこその堂々巡り。
「再生(新生・再構築・リブート)」に向かって・・・
しかし私にとって一番、持って帰りたい言葉はこれだ。
ユイ/レイ/リリス「生きてゆこうとする心がある。生きてゆこうとさえ思えば、どこだって天国になるわ。だって、生きているんですもの。幸せになるチャンスは、どこにでもあるわ。太陽と月と地球がある限り、大丈夫」
そしてアダムやリリスの思惑通り、シンジくんは決断を下し、サードインパクトは失敗に終わる。
人間は再びATフィールドをまとい、ヒトの姿を取り戻してゆく。
「気持ち悪い」で終わる最後。
拒絶の言葉。
つまり新たな心の壁。
人がヒトとしての形を取り戻す原始の感情が発露したのだ。
また、
もうひとつの着地地点 – 碇ユイの場合
このシンジくんルートの結末とは別に、碇ユイ=エヴァ初号機ルートのもうひとつの結末も見逃してはならない。
シンジくんルートの結論として、「太陽と月と地球がある限り、大丈夫」というスタンスに、人の生きる道がある。
しかし太陽も月も地球も無くなる日はいつの日かやってくる。
ここで今一度、さっき引用した碇ユイの言葉を引用しよう。
ユイ「ヒトはこの星でしか生きられません。でも、エヴァは無限に生きていられます。その中に宿る人の心とともに。たとえ、50億年経って、この地球も、月も、太陽さえなくしても残りますわ。たった一人でも生きていけたら……。とても寂しいけど、生きていけるなら……」
冬月「ヒトの生きた証は、永遠に残るか……」
太陽も月も地球も無くなる日がきても、人がいた証を残すことはできる。
そのために、碇ユイは石化したエヴァ初号機と共に、永遠に宇宙を彷徨い続けるというのだ。
今にして考えてみたら、碇ユイがシンジくんをエヴァ初号機の実験の場に呼んだのは、今生最後の別れを予感していたからなのかもしれない。
ユイは遠い未来、この地球が無くなってからもずっと、永遠に、人類が生きていた証として、永遠に宇宙を彷徨うという、金字塔を打ち立てる旅に出たのだ。
シンジ、よくみておきなさい、これがお母さんの選んだ道なのよ。
なんつって。
なんて途方もない最終地点。
なんて物語。
子供の頃に手塚治虫の『火の鳥』を読んで、おもしろいとか感動とかそんなものを超えて、何かすごいものが魂に食い込んだ気がした。
あのインパクトを思い出した。
映画の中でサードインパクトが進行しているなか、自分の中で遅れてきたセカンドインパクトが同時進行していたかのようだ。
改めてこの完結篇はすごい作品だったんだな、と思った。
しかしここまで完璧なラストを迎えたエヴァを、新劇場版では今一度、どう終わらせる気なんだろうか?
YouTubeバージョンもぜひご覧ください
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次回は『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』の考察と感想でお会いいたしましょう。
評価
他のエヴァ作品と比較してこの評価。アニメ全般で考えたら星4〜5つレベル。
★★★★★
『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』を見る
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