作品データ
原題:Sully
監督:クリント・イーストウッド
原作:チェスリー・サレンバーガー、ジェフリー・ザスロー
脚本:トッド・コマーニキ
出演:トム・ハンクス、アーロン・エッカート、ローラ・リニー
音楽:クリスチャン・ジェイコブ、ザ・ティアニー・サットン・バンド
制作:2016年、アメリカ
あらすじ(ネタバレなし)
2009年1月15日、ラガーディア空港発シャーロット空港行きのUSエアウェイズ1549便は離陸直後、巡航高度に向かう途中に鳥の群れに接触し、鳥がエンジンに吸い込まれ、両エンジンが機能停止してしまう。
機長のチェスリー・サレンバーガーは、推力を失った機体を出発地ラガーディア空港に引き返えそうと試みるが、高度が低すぎると判断。
やむを得ず、眼下に流れるハドソン川に機体を着水させる。
サリーの巧みな操縦により、着水の衝撃で機体が分解することもなく、また、クルーの迅速な避難誘導や救助が早かったこともあり、1人の死者も出なかった。
このニュースは世界中で「ハドソン川の奇跡」と呼ばれ、サリーは一躍ヒーローとなる。
しかし後日、NTSBの事故調査委員会がシミュレートを行った結果、1549便はエンジンが動いていて、ラガーディアにも他の空港にも着陸が可能だったという報告を突き付けられた。
果たして、サリーの行動は正しかったのか?
それとも、乗客の命を危険に晒す行為だったのか?
『ハドソン川の奇跡』の感想
不時着水という英断により、大型旅客機の乗客全員の命を救って英雄になったサリー機長のお話し。
(最後まで見たらそういうお話しではないことがわかるのだが)
私がこの記事で強く主張したいのは2点。
ひとつは、この映画が描いた「真実」と「嘘」とのはざまに浮かび上がってくるテーマ。
もうひとつは、邦題の限りない正しさである。
私はこの『ハドソン川の奇跡』という邦題は、クソ邦題が得意な日本の配給会社にしてはなかなか適切なネーミングだったと思うのだ。
↓ここから先はネタバレあり↓
この映画が描いた「真実」と「嘘」
この映画には「真実」と「嘘」が織り交ぜて作られている。
まず真実の部分だが、イーストウッドは実際の事件に映像を近づけるため、救助ボートは実際に使われたものを使用したり、救助隊や警察官、ニュースキャスターなど、救出に関わった人たちを本人役で多数出演させたのだそうだ。
ところがそれに対して、この映画はドラマの部分でとんでもない嘘をついている。
不時着水という英断により、大型旅客機の乗客全員の命を救って一躍ヒーローになったサリー機長だが、この映画のストーリーではそこから一転、NTSB(国家運輸安全委員会)の厳しい追及により、サリー機長の判断が疑問視されてしまうのだ。
そこでサリーは委員会が提示した意地悪なシミュレーションには「人間」を加味されていないことを指摘し、見事、調査結果を覆すことに成功する。
この、サリーが事故調査委員会から厳しい取り調べを受け、それを挽回する過程は実際にはなかったことで、この映画のために脚色されたフィクションなのだという。
なんで出演者に実際に事件に関わった人たちを起用したり、画作りも実際のニュース映像を限りなく忠実に再現するほどのリアリティへのこだわりを見せたイーストウッド監督が、こんな嘘くさいドラマ演出でストーリーをアレンジしてしまうのか?
実はまさにその点に、イーストウッドが描きたかった中心のテーマが隠されているのだ。
シミュレーション結果に足りなかったもの
ドラマ部分で注目したいのは、サリー機長を陥れようとする調査委員会がその根拠として提示するシミュレーション映像。
実はこのお粗末なシミュレーション結果を修正してゆく過程が、この映画のラストが突きつけるテーマを象徴しているのだ。
調査委員会が提示したシミュレーションを、サリー機長は「このシミレーションには人間が加味されていない」と指摘することで、自らの判断が正しかったことを証明する。
このシミュレーション結果を覆す過程で、サリー機長の決断の成功の裏には、事件に関わった人々すべてのチームワークが大切であったことを浮き彫りにしているのである。
もう少し別の言い方をすると、委員会が提示したシミュレーションにサリーが「人間」の要素を加味するシーンを入れることで、この事件における奇跡の正体が、関わった人間たちの絆によってもたらされたという事実が、ストーリー上に浮かび上がる仕掛けになっているのだ。
原題『Sully』がもたらすミスリードとそのインパクト
前項で解説したこの映画のテーマを考えると、タイトルが果たす役割がまた興味深い。
この映画の原題はシンプルにこの機長のニックネーム『Sully』なのだが、これにはミスリードが隠されていると私は思う。
『Sully』というタイトルを見て、観客は「ああ、この映画はサリー機長の英雄譚なんだな」と早とちりをする。
ところが最後まで見ると、本当にヒーローだったのは、この事件に関わった人たち全員。
サリー機長をはじめ、副機長、客室乗務員、乗客ひとりひとり、そして救助に駆けつけた人たち皆んなが、ヒーローだったのだと最後にわかるのである。
つまりこのタイトルの「サリー」とは、「チーム・サリー」という意味なのだ。
邦題が『サリー』ではダメな理由
もしこの映画の邦題を原題に忠実に『サリー』とつけたらどうだろう?
サリー機長はアメリカでこそ有名人だが、日本ではそれほど知られている人物ではない。
つまりこの映画が意図するミスリードがタイトルから発動されなくなってしまうのだ。
それでいて、例えば『サリーの決断』だとか、『奇跡の機長サリー』だとか、「サリー」を説明する言葉をつけてしまったら、それはそれでミスリードになるであろうが、そのミスリードは真っ赤な「嘘」によってもたらされたミスリードになってしまう。
これらのミスリードは、観客がタイトルから「勝手に想像する」ことで発動されなければ意味がないのだ。
マスメディアに踊らされ、一般大衆はサリー機長をヒーローにまつりあげる。
そんな大衆にイーストウッドは、「本当のヒーローとは、この事件に関わった人たちひとりひとりなんだ」と訴えているのである。
観客がタイトルから浅はかにも映画の内容を早合点してしまう。
その現象そのものが、この映画が突きつけている、マスメディアが物事の本質を塗り替えてしまう現象のメタファーになっているわけだ。
邦題の限りない正しさについて
邦題の『ハドソン川の奇跡』は、原題と同様のミスリードをもたらす効果があるし、サリー機長のことも、事件のこともよく知らなかった日本人にも、容易に内容をイメージできるタイトルである。
「奇跡」というのは本来、神が起こすもの、という通念がある。
ところがこの映画を最後まで見ると、「ハドソン川の奇跡」とは、決して神や、神がかったサリー機長の機転によって生み出されたものではない。
サリー機長を中心に、副操縦士・客室従業員・乗客・救助に駆けつけた人たち全員の絆によって生み出されたものだとわかるのである。
つまり原題の『Sully』と邦題の『ハドソン川の奇跡』は、タイトルから観客が勝手に想像するモノと、この映画のラストが実際に突きつける本質的なテーマとの「距離感」がそっくりなのだ。
それもそのはず、『Sully』とは機長のニックネームであり、『ハドソン川の奇跡』とは事件のニックネームである。
ニックネームとは、マスメディアがつくウソのように、人々の口から口へと風のように渡り歩きながら、いつの間にか定着するもの。
いつだって物事の本質は大衆の見当違いの方向に隠れているものなのである。
そんなマスメディアや大衆の噂が作り上げた虚構をぶっ壊すのが、クリント・イーストウッドという映像作家なのだ。
評価
リアリティの中にウソを紛れ込ませることで、逆にマスメディアに踊らされた大衆の本性をあぶり出すストーリー構成が秀逸。
★★★★★
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