映画『ヒメアノ〜ル』の感想 – 森田はどうして悪いのか?

ヒメアノ〜ル
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作品データ

監督:吉田恵輔
原作:古谷実
脚本:吉田恵輔
出演:森田剛、濱田岳、佐津川愛美、ムロツヨシ
音楽:野村卓史
制作:2016年、日本

あらすじ(ネタバレなし)

清掃会社で働く岡田進は、同僚の安藤勇次にカフェに連れていかれる。
安藤はそこのカフェで働く阿部ユカに片思いをしていた。

同じカフェで岡田は、高校の同級生だった森田正一と再会する。

岡田は安藤の恋路を助けることになったのだが、ユカは森田にストーカーの被害にあっていた。

『ヒメアノ〜ル』の感想

ジャンルが推移する面白い構成

面白かった。

最初はラブコメかと思ったら、ずいぶん遅れて映画のタイトルが出て、そこからガラッと暗黒なサイコホラーになる。

↓ここから先はネタバレあり↓

ヒメアノ〜ル

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そして最後に、連続殺人鬼の心理を深く掘り下げた衝撃のラストが訪れる、という仕掛け。

キャラは巧妙な演出で面白く作り込まれていて、会話シーンを見ているだけで飽きない。

映画版と原作漫画の決定的なモチーフの違いについて

映画を見終わって、原作の漫画も読んでみた。

映画では、単なるサイコな男だと思われた森田が、実は殺人鬼になった理由がちゃんとあったのだとラストにわかる仕掛けになっていた。
ところが原作では、森田が殺人鬼になった理由はほとんど描かれず、ただ、たまたま人と違う感性に生まれてしまった男の生きづらさにスポットが当てられた内容になっている。

いわゆる原作の漫画は映画『時計じかけのオレンジ』の主人公アレックスの描き方とアプローチが同じなのだ。

『時計じかけのオレンジ』の監督スタンリー・キューブリックが、主人公のアレックスをして「暴力は彼にとっての普通、いわゆる日常なのだ」と語った。

そう、アレックスにとっての「暴力」や、森田にとっての「殺人」は、彼らのとっての「普通」なのだ。

しかし、社会はそれを「普通」とは受け取ることができなかった。

だからアレックスは「治療」されたし、森田は「犯罪者」にされたのである。

「悪」を描くための2つのアプローチについて

この、原作と映画の森田の描写の違いは重要だ。

私は物語において「悪者」の描き方には2通りのアプローチがあると思っている。

ひとつは、悪いやつにも悪いやつになるだけの、それなりの理由がある、というアプローチ。
つまり、人間が悪いやつになってしまうのは、社会や家族や人間関係など、環境によって心が何かしら歪まさてしまったからなのだ、という考え方。

最後の方のシーンで、岡田は森田に「森田くん、昔はこんなことする人じゃなかったでしょ」と言う。

そう、森田は本来、人を殺すような人間ではなかったのだ。
何かしら理由があって、歪んでしまったから悪いやつになってしまったのだ。
生まれた時から悪いやつなんていないのである。

これは極めて日本人的な考え方で、ちゃんと理解しあえば最終的にはみんな仲良くできる、という和の思想が根底にある。

私も日本人としてこういう考え方は好きだし、大切だと思うのだが、こと物語に関しては、子供の頃からこういうモチーフがあまり好きではない。

そこで取り上げたいのが、もうひとつの悪いやつの描き方、「絶対悪」というモチーフである。

森田剛が演ずる映画『ヒメアノ〜ル』の森田正一

昔はこんなことする人じゃなかった森田くん(出典:imdb

絶対悪というモチーフ

私は子供の頃から「絶対悪」というモチーフに惹かれていて、もうとにかく悪いやつはとにかく悪い、理屈抜きに悪いやつは悪いのだ、ってのが大好きだった。

これは例えば先ほど言及した『時計じかけのオレンジ』や、ホラー映画『悪魔のいけにえ』、またはフランス文学のサド侯爵の諸作品などに見られるモチーフで、ヤツらにとっての「常識」は、はわれわれにとっての「非常識」であり、ヤツらにとっての「日常」はわれわれにとっての「非日常」だという、隔絶された構図がある。

これは住んでいる世界の違い、あるいは生まれ持った物理的な脳の構造の違いによるものなので、双方が理解し合うことはできず、結末に待っているのは限りない断絶、それによってもたらされる悲劇か、悲劇が裏にある喜劇にしか成り得ない。

原作の、森田が最後に流す涙は、その、殺人という生まれ持って一般の人間たちと異なる趣向を持ってしまったことの、社会と折り合いのつけられない異端ゆえの悲しみなのだ。

まとめ 〜なんだかんだで良い映画化だった件

映画版のラストを見て観客は、「森田は昔は自分たちと変わらない普通の人間だったのか」「いじめられたから森田は歪んでしまったのか」と、観客が森田を理解してしまう仕掛けになっている。

近年は『ジョーカー』なんて映画が制作されて、アメリカまでが「心の底から悪いやつなんていない」モチーフが主流になってきた。

私の好きな「絶対悪」を描いた物語が近年かなり需要が減ってきた気がする。

私は高校の頃にサド侯爵の小説を読みふけり、人間の常識や善悪の基準というものは、その視点の違い、立ち位置の違いによって変化するのだという哲学にとても興味を持っていた。
いわゆる自分とは異なる世界に生きてる絶対悪のピカレスクロマンといったモチーフの物語に、なぜか底知れぬ魅力を感じていたのだ。

それだけに、同じ価値観の世界の中で、社会的な弱者が強者のしいたレールから爪弾きにされ、心を歪ませることで悪に染まってゆく、そんなモチーフを眠たいと思うようになっていた。

この『ヒメアノ〜ル』の原作を読んで、久しぶりにこの「絶対悪」のモチーフに適合する物語を読んだと思って、少し懐かしくなったのだが、同時にちょっと古臭さを感じてしまったのも確かである。

その点で、やはりこの映画化は、現代では主流となっているトレンドの「悪いやつの捉え方」に合致する悪くないアレンジだったと思う。

まとめると、この『ヒメアノ〜ル』は、原作は昔懐かしい社会的・哲学的な香りのする仕上がりで、映画は今風のドラマ性が強調されたエンターテイメントな仕上がりになっていたと言える。

私としては別物として原作も映画も両方好きだ。

評価

恋愛コメディからサイコホラー、そして衝撃のラストまで、うまく決まったなかなかの傑作。
★★★★

Good Movie 認定


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ヒメアノ~ル(原作)

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