映画『コブラ・ヴェルデ』の感想 – キンスキー、スゴすぎる!!!

コブラ・ヴェルデ
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作品データ

原題:Cobra Verde
監督:ベルナー・ヘルツォーク
原作:ブルース・チャトウィン
脚本:ベルナー・ヘルツォーク
出演:クラウス・キンスキー、ホセ・レーゴイ、キング・アンパウ、サルバトーレ・バジーレ、ペーター・ベルリング
音楽:ポポル・ヴー
制作:1988年、西ドイツ

ストーリー(ネタバレなし)

19世紀初頭のブラジル。山賊のコブラ・ヴェルデは、農園の奴隷監督として働いていた。ある日、そこの主人の娘に手を出してしまい、奴隷商人としてアフリカのダオメーへ飛ばされる。しかし新天地へと向かうコブラ・ヴェルデはむしろ野心に燃えていた。

『コブラ・ヴェルデ』の感想

ヘルツォーク=キンスキー・コンビの映画としては決して出来のいい方ではない。
しかしこれが、名コンビの最後を飾るにふさわしい大傑作。

ストーリー運びは雑で、なんだか必要なシーンがちょこちょこ抜けているような印象がある。

ヘルツォークは決してヘタな監督ではないから、きっと撮影が大変だったに違いない。

映画を作ったことあればわかってくれる方は多いと思うが、映画制作のキモはあくまでも脚本と撮影準備と編集で、撮影というのはその素材集めみたいな概念がある。
撮影期間というのはむしろ俳優さんの本領で、監督的には、今撮っているシーンがちゃんと編集でつながるか、他に撮っておくべき素材はないか、そんなことばかり考えていたりするものだ。

そんな感じだから、ロケが続いたり素人俳優ばかり使ってたりして、時間も押してきて、あまりにも撮影が大変になってくると、プロデューサーは脚本とりあげて「これとこれはいらないだろ」なんて線引きはじめるし、「もういいよ、これでつながるよ」なんて言って次の現場に移動しつつ、妥協を重ねては血を流しつつ映画というのは作り上げていくものなのだ。(まあ、人によると思うけど)

それがましてや、ほぼ全アフリカロケ、何をしゃべっているかわからない未開人ばかりを俳優に使い、おまけに主演があの怪人クラウス・キンスキーときている。

私の想像が98%くらい入っているが、この映画の雑さはそんな感じの状況からもたらされたものなんじゃなかろうか。

コブラ・ヴェルデ

見るからに撮影、大変そうだ。(出典:imdb

ヘルツォークは大自然に立ち向かう人間を描き続けている監督だが、この時期のヘルツォークはまるで彼自身が映画という大自然の狂気にも似た創造行為に立ち向かう男、そのまんまと化している。
皮肉な事実というより、見事な符号と言ってしまいたい。

つまり私は何が言いたいのかというと、この映画の雑さは、決してマイナス要素なのではない、ということだ。
言葉を変えると、ヘルツォーク監督の苦労の轍(わだち)なのである。

そんなヘルツォークの苦悩をよそに、「この映画の行く末は俺にまかせておけ!」とばかりに、狂気の存在感を全編にわたってスクリーンに炸裂させ続けるキンスキー。

もう脚本だの編集だの、正当な映画制作理論をすべてブチ壊して、この映画の説得力をただこのキンスキーの存在感とオーラのみが担っている。

ストーリー運びの雑さはむしろ、キンスキーの気迫あふれる狂気を引き立てているだけで、マイナス要素どころか、チャームポイントにさえなっている。

↓ここから先はネタバレあり↓

そんなキンスキーの怪演に対して、ヘルツォークは「キンスキーめ、お前ばっかりいいとこ見せやがって。俺だって監督としての意地があらあ」と一度も思わなかったのだろうか。

いいや。そんなこと思うわけがない。

それは海辺でのラストシーンを見ればわかる。
この映画のエンディングはキンスキーの一人芝居にすべて委ねられているではないか。

コブラ・ヴェルデ

キンスキーも大変そうだ。(出典:imdb

この映画全編を貫いている、映画としては不自然なまでのパワーバランスの崩壊を、ヘルツォークは修正しようとも思わず、逆にその勢いのまま、最後の最後までキンスキーに突っ走らせたのだ。

そしてキンスキーは見事にそれを成功させた。

まったく呆れかえる傑作だ。

評価

ヘルツォーク=キンスキー・コンビの映画としては『ノスフェラトゥ』の次くらいに好き。
★★★★★

Good Movie 認定


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